まず、このページをご覧いただき、ありがとうございます! 里しんご(サト)と申します。
どのページを見ていただいてもうれしいのですが、「プロフィール」という個人的なことを書き綴ったページをご覧いただけると、また違ったうれしさがあります。
わたしは幸運に恵まれ、インドネシアで日本語学校を設立しました。
現在、日本語教師として生計を立てております。
インドネシア語学習歴は20年を、日本語教師歴は10年を超えました。
ブログのタイトル「さとたす」は、次のような理由で名付けました。
- 「サト」プラス「インドネシア」、「サト」プラス「日本語教育」など、わたしとつながるさまざまなもの・ことを発信したい
- 「satotas」と書くと左から読んでも右から読んでも「satotas」(「山本山」的発想)
以下、自己紹介をさせていただきます。
すでにさらっとご紹介したのですが、中学校時代ぐらいまでさかのぼってみます。
中学〜高校時代
まず、中学から高校時代です。
電子◯◯が大好きだった
わたしは昔から電子◯◯(ガジェット系)が好きでした。
中学時代にはすでに電子手帳に日記をつけていたぐらいです。
英語だけは得意だった
そして、中学、高校と、なぜか英語だけは得意でした。
大学でも英語を専攻する気マンマンで、外国語大学を目指すことにしたのでした。。
インドネシア語との出会い
ところが、尊敬していた英語の先生に、「外大(外国語大学)では、英語以外を勉強したほうがおもしろいよ」と言われたのです。
当時素直だった私は「それもそうやな」と思い、志望していた大学のパンフレットを熟読。
そこには、なんと24もの専攻語が紹介されていたのですが、一番かんたんそうなインドネシア語を勉強したい! と思ったのです。
インドネシアという国にひかれたわけではなく、純粋に言葉に対する興味だけでインドネシア語を選んだわけですね。
そして、何とかかんとか入学を果たしました。
大学時代
ここから大学時代です。
電子ブックリーダーを使い始める
大学時代だったと思いますが、今はなき電子ブックリーダーを購入しました。
これは主に辞書用で、辞書のように厚く、辞書のように重い代物でしたが、なんせ検索が速いのが魅力的。
残念ながらインドネシア語の辞書はなく、英語学習のために買いました。
インドネシア留学
そして大学では順調にインドネシア語を学び、4年目を休学してインドネシアに留学。
一度は海外に住みたい、というのが最大の動機でした。
お腹を壊して病院で点滴を受けた回数は数え切れず。
とある店に手帳を忘れたら戻ってこず。
送別会で生卵を20個ぐらいぶつけられ。
あ、生卵は事前に承諾してましたが。ちなみにこんな↓感じでした。
それでも、一言で言うとプライスレスな時間を過ごせた国です。
1年弱の留学を終えて帰国する頃には、また戻ってきて、いつかインドネシアのお役に立ちたいという気持ちが高まっていました。
会社員時代(日本語教師養成講座受講〜修了)
ここからは、会社員時代です。
社会人1年目で方向転換
社会人としての生活は、とあるメーカーでスタートしました。
インドネシアにも工場があり、駐在員もいるとのことだったので、「いつか私も! 」という思いでした。
が。その「いつか」がおそらく30年ほど先になることが判明。
かなり上の立場で赴任することになるので、当時30代、40代ぐらいでの駐在はかなり厳しかったのです。
日本語教師養成講座と出会う
そこでたまたま目にしたのが、日本語教師養成講座のパンフレットでした。
日本語教師という仕事の存在自体は学生時代から知っていたのですが、自分には関係がないと思っていました。
ところが、1年間、土日だけ学校に通えば日本語教師の資格が取れるとのこと!
これなら会社に通いながらインドネシアに近づけると思い、説明会に足を運びました。
説明会では次のように言われまして。
- インドネシアに行くには日本語教師になるのが一番手っ取り早い
- 受講できる枠が残り1つしかない
当時素直だった私はその場で即申し込みました。
ハンコも近くの店に買いに行ったのを覚えています。
月〜金は会社、土日は学校という、休みなしという生活が1年間続きました。
学校では仲間に恵まれた上、資格も取れて、インドネシアに一歩近づいた……はずでした。
会社員時代(日本語教師養成講座修了後)
一方、会社での仕事もそこそこ充実していたのも事実です。
日本語教室のボランティアで、日本に来ているインドネシアの方と勉強するという形で、一応資格も生かしてもいました。
さらに、当時はインドネシアでの日本語教師の求人もあまりなく、その数少ない求人も、インドネシアでも生活が厳しいんではないかという待遇で……。
そんなこんなで、日本にいてもインドネシアの役に立てる、たまにインドネシアに行けるというポジションに満足してしまっていました。
会社員時代(終幕)
しかし。そんな私にも、29歳ごろ、転機が訪れました。
-
- 仕事に行き詰まり
- 母校である大学が吸収合併されることが決定
- お世話になっていた中国語講座の閉鎖が決定
- コブクロ「蒼く優しく」*リリース
など
他にもあったような気がしますが、とにかく、いろんな変化がいっぺんに起こったわけです。
しかももうすぐ30歳。
ついに退職
と言っても、日本語教師になれる当てがあったわけではありません。
とりあえず、行動計画を作成。
日本語教育をもう一度勉強し直そうと、通信講座を受講し始めました。
それから、退職願を上司に提出しました。
通信講座のレポート書いていても、生活自体は普段と変わらなかったのですが、さすがに退職願を出したあとは一気に物事が動き始めました。
わたしの後任が決まり、引き継ぎを完了させて、退職の道筋をつけたのでした。
ちなみに、通信講座はイギリスにある「英国国際教育研究所」という機関のもの。
1週間程度のスクーリングもあり、ロンドンにも行きました。
夢追い人(またの名を無職)時代
そしていよいよ無職に!
通信講座が終わるか終わらないかというタイミングで、有休消化に入りました。
そのタイミングで、こんなイベントの情報を入手したんです。
インドネシアで日本語を教えていた先生が、その体験談をシェアするイベント
イベントは平日の昼間だったのですが、有給消化期間=無敵です。
なーんにも気にせず参加。
そして、イベントが終わってから先生にご挨拶したところ、インドネシアで日本語教師をされている方をご紹介いただきました。
そこからトントン拍子で話が進み、忘れもしない30回目の誕生日に、内定をいただきました。
そして、2008年8月に、インドネシアで日本語教師としてのキャリアをスタートさせたわけです。
当時の行動計画表の、最後の項目にチェックを入れる直前の写真が残っていました。
日本語教師デビュー
日本語教師としての初めの一歩は、BINUS大学というところで踏み出しました。
対象は学部生ではなく、卒業生。同大学はITが有名で、日本語を勉強してITエンジニアとして日本で働くのがゴールのプログラムでした。
養成講座を受けた「英国国際教育研究所」の公式サイトにも、BINUS大学での様子を寄稿しました。「里」という執筆者がわたしです。
ただ、リーマンショックの影響で、日本での就職先がなくなり、プログラム自体も終了。
どうしようかと思っていたら、国際交流基金が募集をかけていたんです。
「プカンバル」との出会い
必死の思いで国際交流基金の求人に応募し、何とか合格。
いちおう、こちらの資料の150ページにわたしの名前(「里」)が載っています。
派遣先は、スマトラの真ん中ぐらいにあるプカンバルという町でした。
大都市ではないものの、生活に必要なものは揃うし、自然もそこそこ残っていて、心底この町が好きになったわたし。
かねてから「インドネシアに日本語学校をつくりたい」と言っていた友人も足を運んでくれて、場所をプカンバルに決めたのでした。
現在
そして、運だけでプカンバルに日本語学校を設立しました。
この日本語学校、なんだかんだで10年以上続いています。
そして一時帰国の回数も10回以上を数え、今は「一時帰国にピッタリな携帯のSIM探し」というめちゃくちゃニッチな活動にハマっております。
というか、次の3社を併用しております。
あと、昔から電子手帳→電子ブックリーダーときまして、今は電子書籍(Kindle)に毎日お世話になっています。
そんなこんなで、このブログでは、次のようなテーマで発信しています。
- インドネシアでの生活
- インドネシア語学習
- 一時帰国のオトク情報
- コブクロ
- Kindle
- その他
このブログの他に、次のブログも運営しています。
そして、日本語教師養成講座時代に知り合ったプロブロガーのヨスさんが運営する英語学習メディア、「英語びより」にも寄稿しています!
いちおうTOEIC L&Rで980点(2023年9月)、TOEIC S&Wで330点(2023年12月)をマークしていまして、「英語びより」では「英語力を上げてTOEICハイスコアをマークする方法」を中心に発信しています。
TOEICの点数をクリックすると、わたしの本名(SATO SHINGO)入りの「デジタル公式認定証」が見られます。
さらに、「Techable」というPR TIMES社が運営するサイトや、ELSA SpeakというAI英会話アプリのオウンドメディア「ELSA MEDIA」にも寄稿しています。